はじめに
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最終章
9月5日(木曜日)
5時半頃、目覚める。体中が痛い。やっとの思いでトイレへ。6時間経過しているので座薬入れてもいいのだが、寝るだけだし、何とか我慢して、再びベッドへ。7時半に起床、座薬挿入。8時間、持ったわけだが…。
9時過ぎに朝食。ミヤちゃんのいつものコーヒーとパン、サラダにスクランブルエッグ。久しぶりに美味しいコーヒーとパンの朝食。外は雨で、一階の庭の緑が瑞々しく輝いている。窓のそばへ行き、窓を開けて、食事をする。風が入って来て、とても気持ちがいい。私は、雨が好きで、湿度も平気なのだが、ミヤちゃんは湿度が苦手。今日だけは我慢してもらう。
17日振りに風呂に入る。入院中は毎朝、蒸しタオルで体を拭き、二、三日に一度、洗髪もしていたが、やはり気持ちがいい。だが、太腿から下半身の痩せ方が酷い。体重計に乗ると、57.3キロだった。この二カ月で10キロ以上痩せている。あと数か月持つのだろうかと思ってしまう。この痩せ方を見ると、せいぜい三カ月くらいじゃないかと思ってしまう…。
午後、島忠にタクシーを呼んで、私の部屋にと狙っていた壁時計を買いに行く。リビングでテレビを見るための、リクライニングチェアーも物色し、気に入ったのがあり、購入。明日届く。ミヤちゃんはワゴンを探すが、気に入ったのが見つからなかったようだ。
夕方、私の部屋の照明をLEDに取り換えに来て貰った。ベッドから入口のスイッチまで行くのがとてもつらくなっていたのだが、これで、リモコンで消灯出来る。ついでに、ミヤちゃんの部屋、リビングの照明などの入れ替えを済ませる。
懸案だったリビングとミヤちゃんの部屋の間仕切り。入院中に、リフォームの「ゆとりフォーム」に立川ブラインドに注文してもらっていたアコウォール≠ェ取り付けられていたが、最初から備え付けられていたかのように色合いなどがフィットしていて、大正解。
退院して久しぶりに戻った自宅。新築のように綺麗だと改めて思う。とても築30年近くたっているとは思えない。前に住んでいた建築家がリフォームし、綺麗に使っていた賜物である。
「そうよ。もう少し長く住めればよかったのに…」と、恨めし気な目で私を見て、ミヤちゃんが言った。
夕飯は、Yさんから千葉館山のお土産にいただいた「つ印 くじら海遊記 大和煮」。昨日、少しつまんでいたが、缶詰とは思えないほど絶品の味だったので、それをメインにと決めていた。それに、ハムエッグ。コロッケ専門店のポテトサラダ。ここのは何でもナチュラルな味で美味い。とろろオクラ。完食。あと何回、こんなに美味いと思いながら夕飯を食べられるのだろうか。
食後、ベッドに横になり、そのまま、ウトウト。トイレに起きると、姉から電話があったようで、土曜日に上京するとのこと。姉に電話をしようと思いながら、身体が動かない。こういうことが病気になってから多々ある。そのまま、23時近くまでベッドでウトウト。体中が痛く、座薬を入れてもらう。体温、8度。身体は腫瘍熱を常に発していて、座薬を途切れることなく入れることで、強引に抑え込んでいるだけなのだ。こんな状態を続けていて、身体はいつまでもつのだろうか…。
午前1時に目が覚める。座薬が効いていて、身体が楽になり、ワープロに向かって、この日記を書いていた。
9月6日(金曜日)
午前中に、島忠ホームセンターからリクライニング・チェアが届く。リビングにこういう大きなものを置きたくはないが、床に座る態勢がシンドイのだ。ダイニングは椅子。リビングでも椅子でないとテレビもじっくり見れない。自分で簡単に組み立てるのだが、なかなかうまくいかない。ミヤちゃんは気になる様子。
午後、滝山商店街に買い物に出かけるが、身体が痛くて仕方ない。14時30分に座薬を入れたが、15時頃、4、5日振りの排便。30分あれば座薬は体温で完全に溶け、身体に吸収されているハズだとはいうが、やはりそれがいけなかったのか。
夕方5時頃、訪問看護センターと訪問医療の医師と看護師が来宅。その頃から急に寒気がし出した。熱は6度3分で、なかったが、話しているうちにガタガタと震えがくるくらい寒気がして来たので、自分の部屋で横になった。布団や毛布に包まったが、寒気は治まらない。訪問看護、訪問医療の人たちが、帰ってから、熱が9度8分にもなっていた。9度8分! なんて、人生で初めての経験だ。三時間くらい記憶が途切れていた。
夜の8時過ぎに目覚め、何とか起き上がるが、熱はまだ8度8分。さっそく座薬を挿入。滝山クリニックの医師が勧めてくれた薬は全く効かなかった。結局、私の場合、座薬しか効かないのだろうか。しばらくして食事をしようとしたが、ほとんど入らず。
ミヤちゃんが保険証のファイルがないと探し出す。私も、方々探し回るが、見当たらない。もう諦めよう、再発行だって出来るし、忘れよう、と。結局、黒のリュックと黒のプラダのバッグをうっかり間違えて入れていたことが判明。
ミヤちゃんもストレスでいっぱいなのだ。新居に入ったばかり、私は一日中、痛みと発熱。数か月後には確実に死ぬ。不安や寂寥感に耐えているのだと思う
口を開けば、文句ばかり。少し反省をしてみる。彼女は精一杯やってくれている・・・・・。
9月7日(土曜日)
早朝、5時半に目覚める。座薬挿入から9時間以上も過ぎているから体中の痛みが酷い。熱もまだ8度8分。ミヤちゃんも起きて来て、座薬を入れてくれた。7時過ぎに、再び目覚める。座薬が効いていて、痛みはかなり楽になっている。空腹を覚え、お粥を温め、シャケを焼き始める。そこへミヤちゃん再び起きて来て、あとは任せる。昨日の昼間から何も食べていないので、完食する。やっと人心地ついた感じだ。
午後、福岡から姉が見舞にやって来る。池袋のホテルにチェックインし、西武線花小金井までミヤちゃんがタクシーで迎えに行く。待っている間、不意に涙があふれて来る。8歳上の姉で、これまで、とくに大人になってから、どれだけ世話になり頼りにして来たかしれない。
私にはこの8歳年上の姉と5歳年上の兄がいるが、姉は三人の中で一番の秀才だった。とにかく勉強が出来た。昔、押し入れから自分の小学校、中学校の古い通信簿を取り出して見せた。私は、その頃、学生運動らしきものにかぶれていたので、学校の成績がいいことなんかバカにしていた。
それを姉も知っていたが、いいからとにかく見ろという。みると、一学期から三学期まで、すべての学年で、オール5。すべて5なのだ。お前、頭おかしいんじゃないかと呆れ果てたことがあった。中学で、女だてらに(当時はそういう言い方をする人はまだ多かった。1960年頃の話なのである)成績は常にトップ、生徒会長をやり、当時久留米で屈指の進学校(明善高校)にその中学校から女子として初めて入学したらしい。
ともかく、頭抜けて優秀だった。と同時に、当時は鼻持ちならないところもあったような印象がある。 そんな姉が変わったのは、母親になってからのような気がする。子供二人を抱え、ただ逞しくなっていっただけではなく、聡明で、素晴らしい人生哲学のようなものを身に着けていった。
9月8日(日曜日)
学生演劇をやっていた頃、不条理演劇・・・・
オリンピックで日本中騒がれてもねえ・・・。
姉、謙を連れて来る。
ほのぼの和む話。カツサンドを買いに。東京会館のジェリー。二世誕生。
夕飯。カサゴ、明太子、数の子明太。鯨の佃煮。ハムエッグ。
左の首(リンパが異常に痛む)
9月9日(月曜日)
12時30に37.1 13時40に38.2 午後6時に座薬。37.4、まだ熱がある。
風呂に入れず。
ミヤちゃん、一人で買い物へ。玄米のお粥を作る。
カサゴの煮つけ。ハムエッグマカロニサラダ。
夕、38.6。11時、初めてのステロイド。12時頃、座薬。1時50でも38.8。
3時頃目覚め。37.8次第に気分がよくなり、風呂に入る。
9月10日(火曜日)
6時、36.4.
朝、パン。
天ぷらうどんを半分。
13時、順天堂へ
退院以来、初めての外来。
ミヤちゃんの咳。
帰路、寒気、ステロイドで凌ぐ。
午後6時頃まで寝る。
天丼、うどん。
9月11日(水曜日)
13時、清瀬のホスピスを見学に。スガサワさんに案内をしてもらう。建物は古いというか、ホテルというより民宿の雰囲気。個室を見せてもらうが、すべて角部屋、二面にガラス窓、庭も付いている。悪くはない。
スガサワさんの印象もあってのことか。
8月ですか!と、とても驚いていた。
その後、T病院(独立行政法人 国立病院)を見学。新しくて綺麗という印象ばかりだった。確かに新しい建物だが、病院というより、裁判所のような建築イメージ。ただ広いが人の温もりがせず、無機質な印象。勝手にホスピス病棟まで歩く。10分近く廊下を延々と歩いて行く。パンフのイメージと鬱蒼とした木が生い茂る広々とした庭に面した病棟だが、やはりどこか寂しい。まだ、救世軍のほうがいいと思う。ここはNGだ。
やっぱり自分の目で見ないと、実際建物に中に入ってみないと分からない。
9月12日(木曜日)
胸が(あばらが痛む)。
パンとコーヒーのあと、ベッドに眠っていた。午後も結局、ベッドに。座薬が一番効いている三時頃、風呂に入る。ミヤちゃんは買い物へ。
夕飯は親子どんぶり。普通の量が食べられるなんて。80点。
夜の11頃、突然寒気がする。ガタガタ震えだす。発熱の前兆だ。即効性はないとのことだったが、12時になったので、座薬挿入。それでも寒気が襲い続ける。顔が真っ赤になり、身体が硬直、体温計も入れられないくらい。
1時半に目が覚める。座薬が効いてきたのだろう。眠っていたというより記憶がなくなっていた感じだが。ようやく熱を計れる状態に。8度7分。熱が引いてきたので目が覚めたわけで、9度越えは間違いなかっただろう。8度7分でも気分は悪くない。2時半に計ると7度9分。これからは下がり続けるのだろう、逆に眠れなくなる。その間、二度Tシャツが汗でぐっしょりになり着替える。
闘病記を書きだすが、集中できず、はかどらない。
9度越えの発熱がいつ来るのか読めないのはいささか恐怖だ。
9月13日(金曜日)
パンとコーヒーの朝食が二日続いたので、今日はさすがに玄米粥の冷凍を解凍し、梅干し、ハムエッグ、サラダ、明太子で。それでも今日はあまり食欲なし。
NHKのPから「パワー水素」が送られてくる。いろんな免疫療法も考えてきたが、これはダメ元でやってみようかと思う。何よりSさんは、三振かホームランかというような天才肌のところがある。飲み方について袋にある電話。水素を**から抽出して液体にした世界初の画期的なものらしい。
水素はもともと人間の体に65%くらいあるらしい。元凶の活性酸素、唯一の無機物。活性酸素もほんの少し(2%くらい)は必要らしいが、98%は、人体のさまざまな細胞を傷つけるらしい。その最も凶悪な犯人がヒドリキシラジカルというものらしく、水素だけがこの凶悪犯人を水にして、身体の外へ排出するらしい。それでガンが消える。信じられない話だが、実際、スキルス性の胃ガンの人が、全身に転移していたにもかかわらず、これを大量に飲んで消えたらしい。食道ガンで食道閉塞になりかけていた人がわずか二日で喉を通るようになったと電話を掛けてきたらしい。
たまたまその人たちだけには効いたのかもしれない。しかし、副作用がないのは間違いないようだし、何十万で済むのなら、ダメもとでやってみてもいいかと思う。NK細胞のような免疫療法で何百万も出すより、奇跡にかけるにはさほど勿体ない額とも思えない。
午後1時、順天堂の外来へ。
先にミヤちゃんの診察、CTの結果など。気管支も肺も特に異状なし。アレルギーか空気の乾燥(冷房)によるものか。呼吸器の良い先生がいるのでと予約してくれたそうだ。Y先生は、結構誠実で親身。女房へ良い先生を紹介してくれた。
発熱防止のステロイドの量の調整を強く、それに伴う胃薬も増量。それでも効かなければ、座薬を6時間をフライイングしてもいいから入れること。痛みのオキシコンチンはそのまま。何が効いたのか分からなくなるから。
腰や背中が痛くなくなったので放射線が効いているのだろう。今はアバラの痛みが酷いが、アバラへの転移は散らばっているし、放射線は効かないだろう。それより、アバラの骨が骨折したら大事なので、骨を増強する点滴を30分していく。
柳田邦男の『新・がん 50人の勇気』を読む。この闘病記の参考にと思って数日前に買っていたのだが、読んでみて驚く。ノンフィクションとして、書物として、優れている。さすがだ。ちょっと自信をなくす。私が脚本を書いたTBS日曜劇場の『サラリーマン金太郎』が遺作となった芦田伸介氏から真っ先に読んだが、そのことにも触れてあり、生々しく記憶が蘇った。他に全く知らなかった人にがんを患っての最期の姿勢に、圧倒される。
まったく眠れなくなる。朦朧と眠くもならず、今日は意識も冴えわたっている。体調がいい証拠なのだろうか。眠れぬまま、とりあえず、書き綴る。
東京衛生病院のホスピス入所がなかなか決まらない…。余命半年・医者の告知・本人の了解など入所条件はそろっているのに。Y医師から、「“ステロイドを投薬しなければ9度8分の高熱が続き、さらに深刻な状態だ”と言ったつもりでしたが…所見のコピーをFAXしただけだったので、DVD画像は見ておられないから…」と、ホスピスとのやりとりの説明を受ける。
僕も、「“余命は言われなかったが、その口ぶりでは三カ月という印象を受けた”と言いました」というと、Y医師苦笑。先生もつい素直に口を滑らすタイプのようで…それもちょっとショックだった。告知された直後は三カ月もすんなり受け入れられたが、今の正直な心境を言えば、あと三か月後に自分が死んでいるとはとても実感としては受け入れがたい…。
順天堂病院にミヤちゃんの妹が手作りの散らし寿司を持って来る。ミヤちゃんの大好物だ。散らしだけではなく、鮎の塩焼き、煮魚、焼き魚、しじみ、手作りの小鉢など、シラス、チリメン、シソチリメン、瓶に詰めたとろろまで、他にも驚くほどの品数を持って来てくれる。
イトーヨーカドーでバナナ、ロールキャベツなど買って帰宅する。
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※橋下バッシング、社民党他代議士たちのおぞましさ、今更でもないが、マスコミの見識のなさ。客観報道、主観を交えないのはおかしい。それは良しとしよう。だが、自分たちに深い哲学も見識もないものだから、自分たちの都合のいい範囲で専門家を呼び、主観だかなんだがわけのわからないことをしたり顔で喋るキャスターもおぞましい。そんなものだったら、余計なことを言わないNHKのほうがよほどすがすがしい。つまり、客観報道なんてありえないと立派な主張をするなら、それなりに血の滲むような勉強を総動員でやってからにしろといいたい。どこにそんな民放局があるものか。私は、いつの頃からか、ニュースもNHKと他の民放と何とか対抗するためには横並びでない報道をしようとするTV東京しか覗かなくなっている。
これは私の近親憎悪であり、自分を棚に上げていうが、全共闘世代は酷い。すべてとは言わないが、中にはいる。しかしまったく無名の人たちだ。私の上の世代を見て、戦中派、以前には尊敬する人たちが少なからずいるのに、全共闘世代には一人もいない。無名の人の中にいるだろうが、無名である故に、私の不勉強もあるだろうが、誰もいない。その反対に恥を知れといいたくなるような人たちは数知れずいる。「おいしい生活」だったり、口八丁手八丁だけでマスコミを泳いで、何の意味があるのかしらんが、横文字と漢字を一緒にしている男、そして、全共闘世代のそんな厚顔無恥の決定打になったのが、元平和運動から首相にまで上り詰めた男だ。彼こそ全共闘世代の象徴であり、本質的な人物といって間違いない。彼らが、すべてこの世からいなくならないかぎり、まず世直しなど程遠い。完全に消え去り、まったく彼らの世代と切れた世代がくれば何かが変わるかもしれないが、私はもうそれを垣間見ることも出来ない。
9月14日(土曜日)
昨夜の夜更かしで、10時頃に起床。病気の前はこの時間が普通で、それで朝型になったと言ってたくらいだが。
ミヤちゃんは、すでにいつもの朝食を済ませていて、私は、11時頃、昨夜のしじみの味噌汁に、簡単なポークチョップを作り、ハムエッグにキャベツサラダ、明太子、シラスチリメン、ヌカズケ。ミヤちゃんがリタイヤする前のいつものブランチ。量的にも、その頃とまったく同じように食べられ、自分でも驚く。食道ガン、ステージWのbとはとても思えないし、あと二ヵ月で自分が死ぬなんてとても思えない。
食事開始後すぐにS氏よりTELあるも、ここは食事優先。今の私にとって食事は命綱のような気がして、ゆっくり完食出来て、正解だった。
座薬の6時間置きは守っていて、6時にミヤちゃんに入れてもらっていて、起床時はさほど痛まなかったが、やはり切れかかる11時頃から痛み出して来た。12時に座薬。なんとか午後はやり過ごせた。
午後は、KさんからTEL、東京衛生病院の件。一応申込み面談日が決まった旨伝える。東京衛生病院のかつての友人先輩には、Kさんの元奥さんの乳がんの件を優先し、私の件は次いででいいと伝える。
公務員だったタカっくんに、せっかく採用された非常勤がダメになるのが悔しいと愚痴る。東京に見舞いに来たいと言い出す。来ても二時間くらいしか会えないし、お互い何も話すことはない。恋人なら泣きあって慰めあうことも出来るかもしれないがと言うと、これまでの御礼が言いたいなんて言い出す。礼を言うのはこっちで、これまでどれだけ世話になったかしれやしないのは、こっちのほうなのだ。考えといてくれという。
その後、S氏とTEL。「東京が戦場になった日」の演出の件。しばらく熟考したいと答える。
YさんにTELし、意見を聞こうかと、決定稿、DVDを送ることを伝える。久しぶりに学友のTからのメール、これまでの経緯を説明し、TにもDVDを観てもらって、意見を聞こうかと思う。そうやって午後は過ぎてしまう。
夕飯は、昨日食べきれなかった散らし、ミヤちゃんは楽しみにしていて、本当に彼女は妹が作った料理を美味しそうに嬉々として食べる。キスとサヨリの天ぷらを買って来ていたが、私はサヨリが思ったより美味しかったが、彼女はキスがやはり美味しいという。本当にどうしてここまで好みが違うのにこれまでやって来れたのが不思議だ。彼女は、散らしを昨日より多く食べ、私は、散らしは蕎麦の付き出し程度。蕎麦はごぼう天そばに温泉卵。
何とか発熱もなく、痛みも酷くはならず、一日を終えられた。
てっぺんの12時に座薬を入れてもらい、ベッドに入って「新・がん 50人の勇気」を読み始めたら、久しぶりに落ちついて気分よく読書に集中できた。いやはや、どの人の最期も他人事でなく、身につまされる。せめて人並みに恥ずかしく死んで逝けるだろうか…。
9月15日(日曜日)
朝9時頃目覚めたら、物凄い豪雨。台風が近づいているようだ。ベランダ側に置いたリクライニングチェアに座り、よく手入れされた一階の庭を借景に雨を眺めていると実に気分が落ち着く。ふいにK中学へ行きたくなった。雨が叩き付ける無人の校庭や校舎にいるのも気分がいい。晴れた日は晴れた日でまたいいのだが。あと十年か十五年は通いたかった。実に悔しい。
ミヤちゃんが座薬を入れてくれる。ガンでいろいろ準備が出来ていいと思ってたけど、やはり突然死のほうが死への不安もなく、痛みもなく、いいかもねえと。体が利かなくなって意識があるというのが一番嫌かな。呆けてればいいけど。でも、呆けてたら、本当に意識がないのかな…。分かんなくなっちゃった…。
やっと新居にも慣れ、落ち着いていられる時間が多くなった。借景ではあるが、ベランダからの緑、新築といってもいいくらいの清潔感、ダイニングテーブルに座った時の落ち着き感、良いところばかりが目に付いて…
未練が芽生える。ヤバイなあ…
午後、朝の豪雨がウソのように、晴れ渡る。
― 絶 筆 ―
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闘病記は、9月15日で終わっています。延命よりもQOLを優先し、抗がん剤投与を抑制しつつも、
痛みと発熱との戦いの日々だったことが分かります。9月の終り頃から、突如容態が悪化し、10月3日
ホスピス入所。6日に帰らぬ人となってしまいました。
この闘病記は、病床で記述され、文章の推敲をする間もなく絶筆となりました。理不尽な病魔にあっても、
泰然と自身の命運を受け入れ、残された日々の営みを丁寧に綴った最後のメッセージです。文章に乱れ
があるとすれば、それは闘病の過酷さを示す証しに他なりません。饒舌な彼は逝ってしまいました。
= 合掌 =
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