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『みんないつかは死ぬんだから』『ガンで良かった』

──末期ガンの告知、その日からの日記──

 

第1章

 

 

2013年7月25日(木曜日)

 

 

順天堂練馬のW医師は「冷静に聞いて欲しいんですけど」と、CTの画像を動かしながら、言いにくそうな表情を浮かべて話し出した。

「ここなんですけどね」と、白く映る脊椎の下部のほうに百円玉くらいの黒い影と、上部のほうに移動し、それより大きな黒い影を見せた。

「慎重に聞いてほしいんですが」と、自分に言い聞かせるように慎重に言う。

「私は脳神経内科が専門なので、断定的なことは言えないんですが、一般的に言いますと、これは、ガンが骨に転移している場合が多いんです」

 

  ガンが骨に転移してる…!?

 「もしそうなら、ステージ4くらいの末期だということになります」

 

  死の宣告を受けたようなものだが、自分でも意外なくらい動揺もなく、傍らにいた女房を振り向くでもなく、冷静に受けとめていた。

これまで、ガーンとショックを受け、その場にへたり込みそうになったり、血の気が引くような思いは何度もしたことがあるが、いつもW医師と話しているように会話が続けられた。

 

「ガンが骨に転移しているんですか…」

「ちょっと待ってください、決定ではないんです。これから検査をしてみないと確定的なことは言えないんですが」と、W医師も努めて笑顔を作り、話し続ける。

「骨にウイルス、あるいは何らかのばい菌が入ったということも考えられないことはないんですが…その場合は、熱が8度、9度とかになるし…こういう影ではなくて…骨の周りに炎症している形になるんですよねえ…」

 

私の場合、熱は7度前後の微熱だった。それがひと月余り続いていた。

「あと、骨自体の病気だと、骨肉腫という場合も考えられますが…骨肉腫は子供や若い人の場合がほとんどですし…骨肉腫の場合、膝とか上腕とかの周りに出来る場合が多いんですよ…肺は、一応問題なさそうだし、原発がどこかということなんですが…早急に予約をしましょう」

 と、電話でCT造影剤、胃カメラ、大腸検査などの予約を始めたのである。

確定的なこと言えないといいながら、ガンの骨への転移をほぼ認めているとしか思えなかった。

 

にもかかわらず、なぜ冷静でいられたかというと、すぐに現実感として受け止められなかった部分もあったかもしれないけど、むしろ、「やはりそうか」と、すごく納得がいったからではないかと思う。

 

 

  これまでひと月余り、微熱と体の痛みが続いていた。最初は夏風邪だろうと、当然ながらそう思って、荻窪のNクリニックに風邪薬を処方してもらう。が、二週間経っても微熱と体の痛みが治らない。 体の痛みは、最初は朝起きた時の下半身の痛みだった。筋肉痛のような、関節痛のような、風邪の時は関節の節々が痛くなるという、まさにそのような痛みなので、夏風邪をまったく疑わなかった。Nクリニックの医師も、「引っ越しで埃を吸って喉を傷めたんでしょう」と言った。確かに、18年間も住んだ石神井のマンションを6月26日に引っ越したが、18年間に積もった埃とガラクタは凄かった。引っ越し疲れもあっただろう。

 

 ところが、引っ越して、三週間経っても微熱と体の痛みは治まらない。この頃から体の痛みは腰に集中していた。腰痛…? しかし、微熱は何だろう…?

単なる夏風邪とは思えなくなり、セカンドオピニオンのつもりで、引っ越し先のマンションのすぐ近くのT病院で診てもらうことにした。

 早急に、肺のレントゲン、血液検査、尿検査をするが、特別な異常は見られないという。ただ、血液検査の炎症反応(CRP)だけが、(1.68)で、少し高いらしい。だが、8段階に分けたとして、2段階くらいだという。他、肝機能、腎機能、白血球も問題なし。やはり風邪との診断で、体の痛みを和らげる炎症剤を中心に処方してくれた。

 

  それでも微熱と痛みは治まらず、一週間後再度T病院へ。すると、「私たちの手には負えません」と、診立てが良いらしい鍼の医師に回された。なんで…鍼? と思うが、その医師によれば、精神的なものではないかというのである。気のせい…!? いや、その可能性は考えられませんか? 思い当たることはありませんか?と。

 

  そういわれれば、思い当たること大有りで、実は一昨年の暮れあたりからウツらしき症状に悩まされ、初めてメンタルクリニックを受診していた。抗鬱剤はどうしても飲みたくなくて、幾つかクリニックを渡り歩き、漢方を処方してくれる荻窪のNクリニックをネットで探し当て、通院していたのだ。

 

Nクリニックは、心療内科専門のクリニックではなく、内科、小児科、などが有り、心療内科もあるというような普通のクリニックで、女房と二人でおばちゃん先生≠ニあだ名していた。そこで漢方を処方して貰い、その漢方が私の体質に合ったようで、ウツの症状は快方に向かっていた。

もともと、Nクリニックのおばちゃん先生も、「ウツというより、更年期障害のようなものですね。真正のウツの人は、あなたみたいに目に力はありません」というようなことを言っていた。

 

しかも、この四月から東京都S区の非常勤嘱託に採用され、小平に中古マンションを買い(女房の内助の功で買えたのだが)、経済的、将来的な不安から若干解放され、これから心機一転、漢方の薬からも離れようとしていた。

 

 ところが、根本的なストレスの原因は解消されていなかったのだろうか…と、「精神的なストレスが腰痛、微熱として出てくることもあるんです」と言われ、妙に納得がいったのだった。

「じゃあ、どうすればいいんでしょうか?」「まあ、そういうこと(精神的なストレス)も念頭に置いて、少し様子を見てください」と、M病院の鍼の医師。

で、そういうことを念頭に置きながら、数日を過ごすが、微熱と腰痛は一向に治まらない。

 

  そして、一昨日(7月23日)。

 

正午頃だったろうか、新しく買ったFAX電話複合機の調子が悪く、それを持ち上げようとした時(持ち上げてはいない)、腰に激痛が走り、大声を上げてそのまま床に蹲り、まったく動けなくなった。息も出来ないくらいの激痛で、傍らにいた女房も驚き、救急車を呼んだほうが…と言うが、その日は午後4時から非常勤嘱託の勤務の日で、休むわけにはいかず、少しすれば治まるような気もして、床に仰向けになったまま、30分くらいじっとしていた。何とか起き上がり、何とかシャワーも浴び、笹塚のK中学へ向かう。

 

  もし、ホームや電車の中でまた激痛に襲われたらと、心配する女房がついて行くという。西武新宿線の花小金井までタクシー。花小金井から高田馬場。高田馬場からまたタクシーに乗り、笹塚のK中学まで行く。だが、痛みは治まらず、事務のOさんが交代要員の手配、近くの病院のリストを取り出し、タクシーを呼んでくれた。

 

  笹塚駅すぐの整形外科Hクリニックへ。そこで、座薬と点滴を打ってくれる。レントゲンでは特に異常なし、ただ血尿が混じっているという。これまでの事情を話し、単なるぎっくり腰とは思えないんですが、と言うと、

「確かに、内臓などの精密検査を受けたほうがいいかもしれませんね」

 

私は、十年近く前から順天堂大学病院に通っている。きっかけは女房が社員旅行に海外へ出かけていた時、夜中に酔っ払って洗濯をしていて、乾燥機で頭を打ち、血だらけになり、驚いて近くの救急病院へ行った。その時の当直医が順天堂大学の勤務医で、念のために脳のMRIを受けてみませんか、と言ってくれたのである。

連続ドラマを書く直前だったので、「念のため」に受けたのだが、百円玉くらいの脳梗塞が見つかったのだ。50歳を過ぎれば、小さな脳梗塞はほとんどの人に見つかる。でも、これはちょっと大きい。場所がよかったからラッキーだったようで、以来、血液をサラサラにするバイアスリンを処方してもらうことになったのである。ふた月に一度、薬を貰いに行くだけなので、その後、近くの順天堂練馬にかわっていた。

 

  Hクリニックの医師は、「それなら都合がいい」と、順天堂練馬に紹介状を書いてくれた。座薬は生まれて初めての経験だったが、効果テキメンで、かなり普通に近い状態で歩けるようになり、タクシーで順天堂練馬の緊急外来へ。

 

かなり待たされ、出て来たのが若いというか幼顔が残るような女医。その時はネームプレートを見る余裕もなかった(あとで研修医だと分かったが)。

彼女の第一声が「今の痛みは10段階で言うとどれくいですか?」

「え…? さっき座薬を入れたので、今は…さほどでもないんですが、とにかく今日の激痛は経験したことがないくらい、死ぬほど痛かったんですよ」

「そうですか…じゃあ、今の痛みは2くらいですか?」

2? いきなり、なんで決めつけるかな…。

「え? いや、今でも5くらいはあると思いますが…」 

 

若い女医、いや幼顔の女医、パチパチとワープロのキーボードを打つことに余念がない。なんか、妙な雰囲気を醸し出している。あとで研修医だと分かって、得心がいったが、経験が浅いのを悟られないように、いや、単に経験がないからマニュアル通りの質問をしているのか…。

 

私は、これまでの経緯を話し出した。彼女は無表情でひたすらワープロに打ち込んでいる。挿入したり行替えしたり。私の話を聞くことより、記録することしか眼中にないようなのだ。

「じゃあ、ここに仰向けになってください」と、診察台へ促し、腰痛の度合いを調べようとするが、弱々しい手つきで、やはりマニュアル通り一応やりましたという感じである。

 

「単なる腰痛じゃない可能性があるので順天堂で精密検査を受けてくださいと、そう言われて来たんですが」

「はい、これからどんな検査をするか、相談しますので、外でお待ちください」

ほう、やはり、みんなで相談しなければならないくらいの症状なのかとその時は思った。

 

外で待っていると、女医が出て来て、「中へどうぞ」。その時、初めて彼女のネームプレートを見た。研修医…。なるほどねえ…。

中に入ると、真打登場といった感じで、若い男の医師(でも40歳前後だろう)がデスクの前に座っている。若い真打は落ち着きなく、研修医が書いたデータを見ながら言った。

 

「闇雲に大きな病院へ送り込んでもらっても、こんな時間ですから、医師もいないし、検査できるものは限られてるんですよ」

 

何を焦っているのか、いきなり不機嫌そうに、苛立ちながらそう言ったのだ。「話は聞きますけどね」というが、早口で一方的に話すだけで、こっちの話を訊く感じがまったくないのだ。

痛い思いをして、笹塚からタクシーに乗って来たのだ。待たされたあげく、研修医に一時間近くも診察させておいて、診断の一言もなければ、こっちの話を訊く姿勢もない。

 

救急外来が忙しいのは分かる。若くて余裕がないのも分かる。しかし、医者としてこれはいかがなものか。十年近く順天堂に通ったので、何人かの医師と接してきたが、それほど悪い印象はなかったが、この若い医師はあまりにも・・・。「順天堂よ、お前もか」といった気持ちになった。

 

  それでもぐっと堪え、「血尿が出ていて、単なる腰痛じゃなさそうなので、順天堂で詳しく調べてもらったほうがいいです」と、言われたんですけど、と研修医に言ったことと同じことを言うと、

 「分かりました。一般的な血液検査とレントゲンしか出来ませんけど、それをやりましょう」と、投げやりに言う。

 

 キレた!「そんな言い方はないでしょう。分かりました。出直します。明日通常の時間帯なら詳しく検査してもらえるんですね。じゃあ、明日出直しますから、予約だけとってください!」と、私はつい大声を上げた。

  一般的な血液検査ならすでに三度、レントゲンも二度受けているのだ。若い医師に動揺が走る。他の医師やスタッフも駆け付ける。

 

  普段は短気な私を抑えにかかる女房も珍しく共闘してくれた。

 「闇雲って言い方はないんじゃないですか。昼間激痛が走って、Hクリニックで、座薬で何とか痛みを抑えてもらって、そこに勧められてここに来たんです!」

 私は女房を抑え、「もういいですから、明日の予約を取ってください。何科で受診すればいいんですか?」

 「はい、分かりました。すぐに予約を取りますので」と、先輩らしき医師がとりなすように答えた。

  二人の怒りが通じたのか、翌日の朝九時、脳神経内科のM医師の一番先に割り込ませてくれていた。私の係りつけの脳神経内科のW医師は休みの日だったので、M医師にどの科を受診すればいいかを相談してくださいということだった。

 

 

「いきなり喧嘩腰だったたよね」

あまり他人には怒らない女房が帰り道、「院長とか、理事長とかに投書しようか」と、憤懣やるかたないといった感じで言った。

 

 その翌日(7月24日)。

 

M医師は、TVの制作会社にいそうなちょっとチャラい感じのする風貌、喋り方だったが、頭脳明晰で、こっちの質問に的確に答えてくれ、もろもろ交通整理をするように黙り込んだあと、

 

「じゃあ、こうましょう。これから、血液検査を受けてください。ガンのマーカーなど含めてかなり詳しい検査をします。そして、今日の午後、整形外科でもっと詳しいレントゲン、そして診察を受けてください。すぐに予約します。そして、明日の午後W先生がいらっしゃるので、今日の血液検査を診てもらって、どのような検査へ進むか、どの科を受診するかを決めてもらいましょう」と手際よく段取ってくれた。さすが順天堂、ちゃんとした医師もいるのだ。

 

  整形外科で脊椎のレントゲンを受ける、特に異常はないという。脊椎の下のほうが少し狭い感じはするが、ヘルニアとかそういうものは見当たらない。

やはり、激痛は腰の外科的疾患ではないようだ。とすれば、内臓的な疾患からの痛みとなるが…そっちのほうがヤバイよね、と女房が呟いた。

 

 そして、今日、7月25日。

 

  私たちは詳しい血液検査の結果を聞くために、13時の予約票を持って、順天堂練馬へやって来たのである。審判を受けるような気分でW医師の部屋に入ったのだが、それでも、血液検査での異常は見られないというのだ。

ただ、炎症反応がこの前より、高くなっているらしい。

「とりあえず、CTを受けてください」と、内線電話で頭を下げながら割り込ませてくれた。

 

そして、CT検査を受け、再度、W医師の部屋へ入り、脊椎に二か所のガンの転移と思われる画像を見せられたわけである。

 

W医師にとっても想定外だったようで、「まだ決定ではありませんので」とか、「私は専門ではありませんし」と、努めて笑顔を作って慎重に話そうとしているのが分かった。

そして、素早く各部署に連絡を取りまくり、CT造影剤(729日)、胃カメラ(731日)、大腸検査(823日)の予約を取ってくれた。それで原発がどこなのかを探索するという。全部終わるのに、ひと月近くもかかる。それでも必死に割り込ませてくれたのだと思う。  

検査の予約はそれぞれひと月以上予約が埋まっているはずだから。しかし、W医師のその必死さを見て、ガンの骨への転移は、ほぼ間違いないだろうとも思った。(しかし、ひと月の間にガンは進行しないのだろうか…)

 

 

すべての予約が完了し、その準備などの説明を聞く頃は、18時近くになっており、患者はほとんどいなくなっていた。

死刑宣告を受けたようなものなのに、二人とも妙に冷静だった。それは、これまでの謎が解けたような、すべてのピースが揃って完成されたジグソーパズルを眺めて、なるほどこういうことかと…ガンの骨への転移ということに得心がいったからだろうと思う。

単純な腰痛で微熱がひと月も続くことはあり得ないだろうし、実は、このひと月余り、二度ほど強烈な便秘に襲われていたが、私はこれまでほとんど便秘になったことが一度もなく、毎朝快便で便秘をする人の気持ちがまったく分からなかった。イチジクカンチョーなど、子供の頃、母親に施してもらった記憶がうっすらとあるものの、60歳になって初めて自分でイチジクカンチョーを使ったのだった。その便秘のことをこれまでどの医師に話しても無反応だった。ガンが骨に転移し、ステージ4、ということなら、便通障害も起こすだろうし、毎日微熱と痛みが続いているのだ。そのストレスだけでも便秘になるだろう。

 

それともう一つ。私は、父親を小学四年生の時に胃ガンで失くしている。だから、ガンに対しては若いころからかなりナーバスになっていた。三十代の終り頃だったろうか、胃のバリユーム検査を受けポリープが見つかった。とうとう来たかと思った。初めて胃カメラを飲んだ。良性だということだったが、今後、悪性に転嫁しないとも限らないので、半年後、少なくとも一年後には必ずまた検査を受けてくださいと言われた。

そして、一年後に再度バリュームを飲むと、「ポリープがありますね」と言う。

「ええ、それは分かってます」

「いえ、前のポリープとは場所が違うんです」

「えっ? それはポリープが増えてるってことですか?」

「いえ、前のポリープは消えています」

消えてる…?

 

その頃、出会ったのが、近藤誠氏の「ガンは切れば治るか」「がん検診は百害あって一利なし」「ガンと闘うな」などの本である。

乱暴にまとめてしまえば、ガンには「必ず転移するガン」と「ガンもどき」がある。「ガンもどき」は放っておいてもゆっくり進行し、死に至る病になるケースはほとんどない。早期発見で完治したケースは、「ガンもどき」であって、放っておいても、切らなくても、増殖しないガンであった可能性が高いというのだ。

私のポリープ体験、有名人のガン闘病、ガンで亡くなった友人たちの例を考えても、説得力を感じる説であると思った。(この説に例外のある一部のガンがあると氏は断っておられるが)

 

以来、この二十年来、近藤氏の本を追って来た。今でこそ氏は有名でいろんなところでとりあげられるが、20年前は医学界では当然ながら物議をかもし、その為今でも講師のままだというのも頷ける。また、胃カメラと簡単に言うがかなりのリスクがあること。さまざまな事故が起きていて、それが伏されてきたことなども四大紙のひとつに大きく取り上げられたこともあった。

 

実際、私のガンの場合、骨にまでガンが転移していたのに、ひと月近く夏風邪だの、精神的なものではないかなど、レントゲン、尿検査、二度の血液検査で何も分からず、結局CTで分かった。あんな激痛に襲われなければ、CT検査はふつうしないわけで…早期発見もヘチマもない。

 

しかも、私はこの6月に集団健康診断を受けていたが、まったく問題はないどころかこれまでにない良いデータ結果で喜んでいたのである。

「健康診断やがん検診の保証期間は当日のみ」と書く医師もいるが、ほとんど気休めだと思って間違いないと思う。いや、こうなってみると、気休めすらならない。

 

かつての私の胃のポリープも、大きくなったら悪性になる可能性があるとかなんとか脅されたが、翌年は消えていて、別のポリープが出来ていた。つまり、ポリープなんて消えたり新たに出来たりを繰り返しているのだろう。

それをその都度、大きなリスクがあるのに胃カメラを飲み、はい、良性でした。悪性の可能性があるので、再度精密検査を…。悪性です、すぐに切りましょう。患者は慌てて手術台に向かう。成功しました。5年生存率です。で、私の友人も胃を三分の二切り、元気に仕事に復帰した。三年ほど経過した。あと二年、もう大丈夫だろうと話していた。どころが、再発し入院しているという。見舞いに行くと、抗がん剤で骨と皮になり「俺が死ぬわけないやんか」と、まだ希望を持って抗がん剤の激烈な副作用に耐えていた。悪性のポリープが、仮に初期だったと言われる段階で見つかっても、私の知る限りほとんど間違いなく再発している。

近藤氏の言うように、再発しなかったのは最初から再発しないガンだった可能性が高いと思うし、そもそも、良性か悪性かを見極めるのはかなり困難で、学閥によっても学者によっても違うというドキュメント番組があったのも覚えている。

 

さらに言えば、数年前(2009年)、NHKスペシャルで立花隆氏の「思索ドキュメント がん 生と死の謎」という番組があった。立花氏自身が膀胱ガンになったことを契機に、世界のノーベル賞クラスのガン研究者、ガン治療の最前線を取材していくというもので、この番組は本当に興味深く、毎回食い入るように見た。

 

で、結局、「ガンは、ほとんど解明されていない」という結論だった。そして、瞠目すべきは、抗がん剤治療は効かないというデータが示されたことだった。

そして、日本の癌研究をしている人たちを相手に講演をして、「みなさんたちの前で申し訳ないんですが、私はガンとは戦いません」と宣言する。人生50年の時代もあった。私はそれより10数年も長く生きている。解明されていないガンと闘うより、自分の寿命として受け入れようと思います、と。

この番組は、私にとっては二十年来信じてきた近藤誠氏の説にさらに説得力を与えるものであった。

(この番組は本当に素晴らしかった。こんな番組を作っただけでもNHKには受信料を払うべきだと初めて思った。NHKオンデマンドで観られます。ぜひ見てください)

 

  つまり、私は二十年前あたりから、親しい友人に近藤誠氏の説を吹聴し、女房にもことあるごとに話して来た。だから二人とも冷静でいられたというわけなのである。

 

ガンになったら、無益な治療はせず、残された時間を豊かに生きよう、

クオリティ・オブ・ライフを最優先しようと。そう決めていたのである。

 

1パーセントでも可能性があれば・・・何の根拠で医者はそんなことを言うのだろう。ガンはほとんど解明されていないというのに。だからこそ言えるのだろう・・・

文芸春秋8月号に、立花隆氏と九大の中山教授の対談が載っている。中山教授は、「ガン幹細胞」の画期的な研究で世界的に注目されている人らしい。抗がん剤が効かないのは、どうもこの「ガン幹細胞」(ガンの親玉のようなもの)のせいであるらしい。まだ、研究途上のようだが、中山教授曰く、

 

すでに百年近い開発の歴史がありますが、抗がん剤だけでがんが消滅した人は特殊なタイプのがんを除き、ほとんどいません。ほとんど効かないのに抗がん剤がいまだに使われているのはとても不思議なことです」

「妙な例えになりますが、会社経営の場合、百年間も赤字が続いたら経営者が交代するのは当然でしょう。しかし、抗がん剤治療については、いくら失敗が続いてもそれを根本的に改めようとする試みはほとんどなされてきませんでした」

そこで「がん幹細胞」の研究ということなのだろう…。

 

中山教授のこの発言を聞く前から、私は、抗がん剤の副作用で苦しむくらいなら、一回でもいい、どこか旅行に行ったり、一度でもいい、美味しい食事をしたほうがいいと固く決意していた。

抗がん剤に確実な効果があるというなら話は別だが、ない、というデータがちゃんとあるわけで、何のために抗がん剤を受けるのか、受けさせる医者があとを絶たないのか、私には本当に理解できない。

 

ともかく、いきなりガンの宣告をされても、(骨への転移、ステージ4)私たちが冷静でいられたのは、ガンで父親を亡くしていたために、ガンについて常にアンテナを張り巡らせてきた賜物だと思っている。

 

長い一日だった。

 

病院を出るころに患者はほとんどいなくなっていた。順天堂練馬病院にあるレストランは美味しいので、そこで夕食をと思っていたが、すでに閉まっていた。隣りの石神井公園駅で降りて、蕎麦居酒屋の「稲田屋」へ入った。ここは、蕎麦屋にしては刺身や料理も美味しく、居酒屋にしては蕎麦も本格的に美味い。

友人のYさんと定期的に会食をしていて、その都度、ヒラメの刺身が美味しかった、鱧の天ぷらが美味しかった、と話していたので、女房が一度行ってみたいと言ってたのだが、その機会を逃したまま小平に引っ越してしまったので、ふと思い付いた。

  女房は鱧の天ぷらそば、私は半セイロに大根おろしを付けてもらった。便秘が酷いので、控え目にした。

 鱧の天ぷらが美味しいと女房が喜んでいた。いつもと変わらない普通の会話が出来た。

 

  残酷なような気もしたが、私は女房に言った。

 「みんないつかは死ぬんだから。早いか遅いだけだから。ガンで良かったよ」と。

女房も冷静に頷いていた。

 

 西武新宿線の花小金井駅からバスに乗る頃にはすっかり暗くなっていた。小平へ引っ越してまだひと月で、窓の外を見ながら、この街をこれから二人でいろいろ探索しようと思ってたのになあ…と、思った瞬間、ふいに涙が零れ落ちて来た。

バスは通勤の帰宅時間で満員。私は、隣に座っている女房にも乗客にも素知らぬ顔で、涙が流れるままにしていた。こんな時、人知れず泣くのは女のほうだろうに…と、隣の女房を斜に見ながら。

 不意に、女房の手を握りたくなったが、乗客の手前はあるし、思えば、そんなふうに彼女の手を握ったことは、一度もなかったなあ、と思った。彼女以外に付き合ってきた女性とはごく自然に手をつないで歩いたりしたのに、何故か、女房とは恋人の頃から手をつないで歩いた記憶がない。何故だったのだろう。

 

女房は、男にベタベタ甘えるタイプではない。かといって、気が強いというわけでもなく、物静かで、おっとりしている。何事にも控えめで遠慮がち、我を張ることはなく、古風なところのある女性だし、慎重で、本当に気の優しいところがある。

 若い頃はうさぎっ歯だったので、吉永小百合に似ていると言われていたらしい。その頃の写真は、確かに似ていなくはない。そのうさぎっ歯はなくなったが、10年ほど前だったか、友人のKさんが電話して来て、「ミヤちゃんさ、誰かに似てると思ったら、あれに似てるな。ほら、今流行ってる韓国ドラマのさ」「チェ・ジュ?」「チェ・ジュっていうのか。あのドラマ見てたら、誰かに似てると思ったら、ミヤちゃんだよ」「そりゃあ喜ぶよ」と、私が喜んでいた。

彼女にそれを伝えたら、あまり喜ばしくない素振りで、それでも少し嬉しそうにしていた。彼女は「冬ソナ」のようなドラマがあまり好きではない。芸術派が好みで、ジャンヌ・モローとか日本で言えば越路吹雪とか、要するにミーハーではなく、個性的な女優や歌手がお好みなのだ。

また、別の友人は「可愛いお婆ちゃんになりそう」と言ったことがあるが、云い得て妙だと思った。子供がいないからかもしれないが、彼女は一度もおばさん≠ノなることなく、お婆ちゃんになりつつある。彼女の友人たちは、誰も旦那や子供の話はしないらしい。バーゲンなども言ったことはないし、スーパーのポイントも私は溜めるが、彼女は関心がない。どこか浮世離れしたようなところがある。

 

  初めて彼女の家を訪ねた時(結婚の申し込みだったのだが)、姉妹同士、さん&tけで呼び合っているのを聞いて、こんな家族もあるのかとカルチャーショックを受けた。まるで「東京物語」の世界だった。

かといって、山の手のお嬢さん育ちというわけではない。谷根千≠フ千駄木なので、典型的な下町なのだが、(だからこそ山の手風に育てられたのだろうか)妙に礼儀正しいし、姉妹親子でも、距離感をきちんと持っているような雰囲気があった。せっかちであけっぴろげ。何でも口に出してしまう、九州人の私は、そこに惹かれもしたが、妙に他人行儀だと思う時もあった。

 あるいは、彼女が私より年上だったからだったからだろうか。私が年下なので、甘えるわけにはいかないという気持ちがどこかにあったのだろうか。本当は男に甘えたかったのではないだろうか。私が末っ子の甘えん坊なので、甘えられなかったのかもしれない。私と違うタイプの男だったら、甘えていたのかもしれない…。

 

手を握りたい衝動を何とか抑え、何とか涙も気づかれずに、バスを降りた。

自宅マンションへ向かう暗い道を歩きながら、私は前を向いたままで、彼女の手を握った。同時に照れもあり、私は喋り出した。

 

「ミヤちゃんとこうして手を握って歩いたこと、一度もなかったね。他の女性とはごく自然に手をつないで歩いてたんだけど」と、喋り出した瞬間、どうっと涙があふれ出した。

「どうしてだったんだろうね。ごめんね」と、みっともないが、声を上げて泣いた。

「どうしてなの?」と言った彼女も泣いていた。ハンカチで涙をぬぐっていた。

「どうしてなんだろうねえ」と、言うのがやっとだった。

 

出会った時、まさか年上だとは思わなかったし、一緒になってからも年上を意識したことはほとんどなかった。彼女は何事においても慎重というか、消極的なほうなので、私が何でも率先してやった。だから、私が手を握ればよかっただけなのに、それが出来なかった。相性というか、そういう関係だったのかもしれないが…。

 

「やっぱり、なんかそぐわないね」と、私は手を離した。

「何十年もしたことなかったんだもんね」と、二人で笑い合った。

 

本当に長い一日だった…。

 

 

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がん闘病記 中園健司
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